南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち : 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記
小野賢二 [ほか]編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち : 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』,
大月書店,
1996.3.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/14018517
(参照 2025-08-12)
序文 本多勝一
小野賢二
洞富雄 南京事件調査研究会
青木書店 南京大残虐事件資料集
南京大虐殺の研究 洞富雄、藤原彰、本多勝一編
井口和起、木坂順一郎、下里正樹編、南京事件京都師団関係資料集 青木書店 一九八九年
下里正樹 隠された聯隊史 平和のための京都戦争展実行委員会 一九八七年
解説 藤原彰
第十三師団と山田支隊
歩兵第百三旅団長山田栴二少将
歩兵三大隊
会津若松で編成された歩兵第六十五連隊
山砲兵一大隊
越後高田で編成された山砲第十九連隊
第十三師団
特設師団
注解 藤原彰
【斎藤次郎】陣中日記
所属 歩兵第65連隊本部通信班小行李・編成
階級 輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)
住所 福島県
職業 農業
十月六日 曇
死体の臭気に顔そむく
目的地にて捕虜十余人銃殺さる
十月卅日 晴
聯隊高級副官小畑鉄(哲)次郎少佐の戦死の報
頭部銃創貫通で即死
十一月廿四日 晴、曇
今日の糧秣外豚鴨など徴発してくる、毎日肉の馳走で満腹だ
十二月六日 晴
今夜十時、福島市長 佐藤卓氏より祝電あり
十二月十三日 晴
夜七時頃大行季(李)二大隊の熊田君外一名が敗残兵一名を捕慮(虜)にして来る、捕慮(虜)にする際少し負傷して居つた、一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追ふ、若松で刃をたてた銃剣を引抜いて満月に近い月光をあびて追跡する様は内地でみる活動写真の映画其のものゝ感がする、××君より早く追つき銃剣を以て肩先を力にまかせて一剣あびせかける、手ごたい(え)あり其の場に昏到(倒)してしまふ、ようやく追いいつ(つい)た友軍の人たちが集まり先の将校が脳天を真二つに割る、昏到(倒)して居るのを切つたのでくびをはねる積(たつ)たのだろうが手元が少し違つたのだろう・・・・・・
十二月十八日 曇、寒
御前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一順(陣?)の風もなまぐさく何となく殺気たつて居る、揚子江岸で捕慮(虜)〇〇〇名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居つたのが今夜は曇り、薄明い位、霧の様な雨がチラチラ降つて来た、寒い北風が耳を切る様だ、捕慮(虜)銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞い(え)悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、
【欄外記事】銃殺捕慮(虜)の死体処理(十八日〇時)
十二月廿二日
聯隊長よりの注意がある、「婦女子に対し暴行をせぬ事。徴発の際は相当なる代価を支払ふ事。みだりに発砲せぬ事等」、
十二月廿七日
夕刻小松軍曹や××伍長が来る、飲酒の末の乱行、人の範を垂れんとするものは何時でも緊張して居つて貰ひたいものとしみじみ思はれる。
[昭和十三年]
一月十四日 晴
夜の話題は炭火を囲んで凱旋話に女の話が一番もで(て)る
一月廿一日 小晴
夜戦友等性の衝動止み難く狂淫に乱舞する、自分も其の巻(巷)に誘われんとしたが心の駒の手綱を引絞め危うき瀬から脱れた。
一月廿二日 晴
イライラとした夜も明けた、
P57
【堀越文男】陣中日記
所属 歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長)・編成
階級 伍長
住所 福島県
職業 農業
九月二十九日
ぱなま丸
国婦(防)婦人会その他の人等少数の見送りなるも
十月三日?
飯田少佐戦死の場あり
あゝ虬江碼頭戦線のあと
十月六日
それも道程とほく及びがたく予ビ班は午後四時頃かへる、帰家宅東方に至る、すなはち、支那人女子供のとりこあり、銃殺す、むごたらしきかな、これ戦ひなり。
十月八日
その川を流るゝ支那人の女の屍あり、戦争これなるかな、午後二時より徴ハツに出づ、泥濘軍靴を没す、すなはち部落をめぐりて家内を物色、支那人男女子、わづかに部落の一ケ所ごとにとゞまりあるのみ
十一月六日
昨夜第三大隊方面に夜襲ありと、それを撃退二百名をやつゝけ、七名捕虜とか、R本へつれてくる。油座一等兵一人切る、渡部軍曹も切る、
[二行解読不能]
まさにすっぱりと首を切り落とされた。
十一月九日
捕虜をひき来る油座氏これを切る。
夜に近く女二人、子供ひとり、これも突かれたり。
十一月二十日
午前八時二十五分頃とある部落に正規兵を発見し吾はじめて之を切る、全く作法通りのきれ工合なり、刀少しく刃こぼれせり、惜しきかな心平かにして人をきりたる時の気持と思はれず吾ながらおどろかれる心の落つきなり、
敵ほどんど退脚(却)す、残れるものは使役に服せしめ又は銃殺、断首等をなす、いかりの心わかず心きほふことなし、血潮を見ても心平生(静)を失ふことなし。
之すなはち戦場心理なるらむか。
十一月二十六日
夜、刀を手入す、日本刀よきかかな日本刀! 人をきりたるあと歴然たり、心すむ如し、チャンチンをのみて、夜大いに気焔上る。
十二月十四日
未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。
年、二十五才なりと、R本部は、五時出発、吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。
午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。
敵の銃をひろひて打(撃)てるものなり。
第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)。天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京に向ふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。
一丘をこえて南京の城壁目(間)近に見ゆ。
城壁一千米手毎にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後四時也。
十二月十五日
午前九時朝食、十時頃より、×××伍長と二人して、徴撥(発)に出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、すでに五時なり。
揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、三四十名づゝ一度に行ふものなり。
十二月十七日
午前八時整列、山霧ながるゝ枯葉の道を下つて南京城へ向ふ、午前九時三十分和平門より入城、松井石根大将(軍司令官)、浅(朝)香宮、長谷川第三鑑(艦)隊司令官等の閲兵あり。
十二月二十五日
一日何ごともなし、第三中隊の兵徴撥(発)にゆき土民に撲殺されたりと、油座、上野両一等兵上海へ遺骨を持って出発す。
[一九三八年]
一月十四日
師団に女郎屋出来たりと、なほ聯隊にも開設せられる由、然しながら出征の折に「女身にふれず」との念願すでに固ければ吾には用もなきことなり。
P87
【遠藤重太郎】陣中日記
所属 歩兵第65連隊第I大隊本部・大行李・編成
階級 輺重特務兵(1938年1月に一等兵に進級)
住所 福島県
職業 農業
十月三日
江陰出発して五日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、宇(鳥)龍山砲台に向つた所はやくも我六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまつたので又南京北方の砲台に向つたら南京敗残兵が白旗かゝげて来たので捕慮(虜)二万、宗形君は、十二月十七日夜十時戦死。
十二月二十二日
我六十五聯隊はもくてき地に到着したのは午後五時、敵は退きやく(却)して敵兵一人も居ない。
南京北方一里の馬龍(幕府)山砲台一帯で捕慮(虜)した敵兵のしまつは実に我々特務兵に取つてわすれる事の出来ない感を一寸記す。
馬龍(幕府)山に付(着)く日の朝五時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立て我軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五列(裂)これでも皇軍にていこう(抵抗)したのかとびつくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりようした、二大隊も三大隊も皆
[このあと二頁分破られて欠]
十二月二十四日 曇り 前日と同
十二月十九日に南京北方一里の地点馬龍(幕府)山砲台のふもとに帯(滞)在して居る時捕慮(虜)を制(整)理する時日日新聞記者に頼んで一通私が書いたのを日日新聞記者に頼んで南京野戦郵便局に出し戴いたきりだ
昭和十三年
一月四日
排日秘密機関は藍衣社であつた。日本引(びいき)の新聞社員なども多く藍衣社員に殺された。
一月十四日 晴天
武器の手入、聯隊長が我隊の居る江浦に来る、三中隊の将校セッコウが土民にしう(襲)撃されたとの事で我隊より機関銃隊と小銃分隊が自動車で行つた。
P97
【伊藤喜八】陣中日記
所属 歩兵第65連隊第1中隊・編成
階級 上等兵
住所 福島県
職業 農業
[十月]六日
□上にて大隊ロ営にて天幕をする様に竹をきりに行った処、敵兵十名以上進入しつゝあるとの事、大隊は一線に出て我が少(小)隊は火線光生(構成)して一線にて実にきんき(ち)ょうした、支那人十五人ばかりつれてきて銃殺してむごいさんだんだった、
拾月拾壱日
午前五時出発、旅団司令部迄くる途中支那兵の死人山の如し、実(に)ゆくわい(愉快)
拾二月拾七日
午后一時から南京入城式。
夕方は大隊と一所(緒)の処で四中隊で一泊した。
その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江岸にて銃殺した。
拾二月拾八日
大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した、実にひどいざん場(惨状?)でした。
十二月二十七日
午前八時半出発、守備地に向って行進、里程は三里半位い、午后二時頃到着、江浦鎮の守備に着(就)いた、実に徴発は面白い、戦利品たくさん。
P113
【中野政夫】陣中日記
所属 歩兵第65連隊第1中隊・第3次補充
階級 上等兵
住所 福島県
職業 農業
十二月十八日 晴
警備。(大隊二於テハ一万七千ノ捕虜ヲ所(処)分ス)
P123
【宮本省吾】陣中日記
所属 歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充
階級 少尉
住所 福島県
職業 農業
[十月]二十四日
夜六時ヨリ中隊幹部一同ノ宴会ヲ催ス、遅ク帰ル。
[十二月]十五日
夕方より一部食事やる、兵へも食糧配給出来ざる様にて捕慮(虜)兵への給食は勿論容易なものでない。
[十二月]十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも[午]前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中に俄に火災起り非情なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である
[十二月]十七日(小雪)
本日は一部は南京入城式に参加、大部は捕慮(虜)兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、壮(荘)厳なる史的光景を見(目)のあたり見る事が出来た。
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまつた。
中隊死者一傷者二に達す。
[十二月]十八日 曇
昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付(就)く、起床する間もなく昼食をとる様である。
午后敵死体の方(片)付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。
[十二月]十九日
昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かゝる。
夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる、
[十二月]二十七日
風寒し、午後八時半出発、江浦県に向ふ、昨日の行軍の超過にして殆んど正午迄に江浦県に到着、昼食後直ちに宿舎につき猶警備につく。
当街は今迄になく支那軍も日本軍も未だに入らず、営業も正午迄行つて居る様で日本軍の到来にて驚き然し日本軍を歓迎する有様にて種々好意を見せて居る、徴発も無理な事をせぬ様命令が出て物を始めて売買する様にて勿論支那の貨幣にて買ふ、夕方日直将校を命ぜられ夜間迄かけ廻り服務す。
P141
【杉内俊雄】陣中日記
所属 歩兵第65連隊第7中隊・編成
階級 少尉
住所 福島県
職業 農業
大正(昭和)拾二年
十一月六日
犬猫ノ肉モマタよし、
十二月二日
午前十時江陰入城、第三大隊昨夕入城ス、江陰城北方高地二テ軍旗奉拝ス、編成当時小隊長以下、五十六名ナリシ二今ハ十数名とは感無量なり、揚子江流れ見ゆ。
十二月十四日
五時出発、一路何人向ヘ進撃急なり、南京城外約六粁バクウ(幕府)山麓附近にて敗残兵捕虜スル事約壱万七千、武装解除ス、第Ⅲ大隊収容隊トナル、第七中隊軍旗護衛為南京城外城元門に午后六時二〇分二着、支那海軍学校宿営ス。
十二月十八日
捕虜監視為鴨緑(揚子)江岸に。
P153
【柳沼和也】陣中日記
所属 歩兵第65連隊第7中隊・編成
階級 上等兵
住所 福島県
職業 農業
九、二七
大阪市内見物、たゞし坂本と二人で写真なんか撮って又遊郭の方へも行って来る
九、二八
八時起床、今日から遠くへの外出せるを禁じられる。それで附近の町へ行って遊んで来る、又同じ遊郭に坂本と二人き行く。
十一、八
××さんの犬を打ち殺したので犬を初めて食した、
十一、十五
一方昨日荒川が捕へた敗残兵一名を××さんが刺殺する、后(午)前三時四十分頃だ。
十二月十四日
南京も目の前になる、明け方になったら前衛の第三大隊が支那兵を捕慮(虜)にして置え(い)た、居るわ居るわ全部集めて一部落に収容したが其の数およそ一万七八千と数へる、第五中隊が幕府山攻撃をして完全に占領する、
十二月十五日 晴
其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、十六師団が敗残兵を殺すのを見たが惨酷だったと聞く、英国の会社には電灯もついたりして日本軍の手がつけられない言ってた。
十二月十七日 晴
夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。
一団七千余人揚子江に露と消える様な事も語って居た。
十二月十九日 晴
第三中隊は一昨日の支那兵を取り片附けるに行ったが自分は足が痛いので残る。
皆これを片附けるに面白いとの事であったと。
一月十七日 雨
皇軍の慰問に日本から遊女が来るさうな、それの準備も皆兵隊だからあきれてしふ。
P177
【新妻富雄】陣中日記
所属 歩兵第65連隊第7中隊・第2次補充
階級 上等兵
住所 福島県
職業 郵便局勤務
十二月十三日 晴天 清国
前ノ夜行軍□午后五時□□站出発部落泊る、本日□□□□□河江に対す我中隊□□□□□□山上にて警戒敵兵□□□□□□□□□□者を補リヨ(捕虜)小隊長刀にて殺□□□テ帳は其の兵の持品(物)なり。
十二月十四日 晴天 清国
本日は朝四時五十分整列、南京中間虎子台砲台攻撃□□□□前の部落より出発、夜明間も無敵兵白旗を飛(飜)る返し約一万五六千人□□□改(解)除、砲台は戦死者約四五名□傷者七八名にして占領第二大隊我が中隊は其の地より南京入城、
十二月十五日 晴天 海軍兵舎二テ
明けば朝東から太陽はゆうゆうとただ一発の銃声もなくのんびりとした朝聞くからに敵の捕リヨ(虜)兵二万五六千名我が聯隊でのみ「シウヨウ(収容)」したと云う事だ。
一月八日 晴天
本日は午前九時頃よりリヤクダツ(略奪)、一里程先に出て米三四斗。
P183
大寺隆陣中日記
所属 歩兵第65連隊第7中隊・第4次補充
階級 上等兵
住所 福島県
十二月十七日
昼食前に殺されて居る将校らしき者が二百円あまり持つて居り、皆で分ける、俺も四十五円ばかり貰つた。
【空頁への記事】
平安路ヲ南進
南京ノ捕據(虜)約十万、
九、十一、十三ノ各師団。
六五ノホリヨ一万二千
十二月十八日
午前中に大隊本部に行き、後藤大隊長の訓辞、帰へつて中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて、各分隊に別れる、午后は皆捕リヨ兵方(片)付に行つたが俺は指揮班の為行かず。
昨夜までに殺した捕リヨは約二万、揚子江に二ケ所に山の様に重なつて居るそうだ、七時だが未だ方(片)付け隊は帰へつて来ない。
十二月十九日 幕布(府)山要塞
午前七時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に警(驚)く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午后二時までかゝり作業を終る、昼食は三時だ、直ぐに夕げの仕度にかゝり五時半頃又夕食だ、今日捕リヨ死骸方(片)付に行き、松川の菊池さんに会ふ、こゝの要塞は馬尾山の要塞と云ふ、工兵隊らいしい、砲台の爆破をやる、見事なものだ、バクフ山要塞。
一月三十日
第一小隊二テ捕リヨ六匹殺ス、第三小隊モ五匹捕ヘル。
P211
【遠藤高明】陣中日記
所属 歩兵第65連隊第8中隊・第3次補充
階級 少尉
住所 遺族の意向により伏す
職業 会社員
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